はじめまして!
「みなさん、アットホームであたたかい方ばかりですね」と言われる工務店を経営している小林誠(こばやしまこと)です。
「大きい家を建てなくていいですよ」と言われたので、ホッとしました。人が集まる家にしたい想いを実現できてうれしい」と、ご家族が“笑顔”になることが、わたしの喜びです。
そのために、「自分達
で迷いなく決断できました」と言われるように心がけていきます。

なぜ、わたしが【素直】を使命として宣言しているのか、そのわけを聞いていただけますか?
『木に囲まれて』暮らしていました
わたしの父は当時製材工場を経営していて、母も手伝っていました。祖父は戦死。共働きの為、ほとんどおばあちゃんに育てられました。その為、小さい頃は、祖母の畑仕事をよく手伝わされました。
父は、最初サラリーマンをしながら、兼業農家をしていました。わたしが生まれた頃から木材がお金になるということで、材木屋を始めました。わたしの生まれた出雲崎町の人口が当時7千人。そこに17社ほどの製材会社があるくらい、林業や木材業は活気がありました。
その後、知り合いから家を建てる依頼が来るようになり、材木屋から住宅建築請負業へとシフトしていきました。商売人としてのスキルやセンス、そして、バイタリティは、今思うと、すごいと思います。
母は、最初、縫製工場で働いていました。穏やかな人柄で、人当たりがよい人です。そのせいか、怒られた記憶がほとんどありません。父が製材工場を作ってから、母も工場を手伝っていました。植林から始まり、伐採や製材・販売と、危険で肉体労働です。わたしは小さいながらに、「よく働くなぁ」と思っていました。当時はみんなそんな暮らしだったのかもしれません。
わたしには、2歳上の姉と3歳下の妹がいます。姉妹に、いつもわたしは「まーこ」と呼ばれ、面倒を見てもらいました。小学校まで、1.5kmの道も3人一緒に登校していました。面倒見のよさは、母親譲りなのだと思います。

「家族が集まる場所」
小学5年生まで、祖母、両親、姉妹と6人で、昔ながらの大きなかやぶきの家に住んでいました。両親は自営で共働きの為、子供の世話をできない。休みの日も、田んぼや畑、山林の仕事と忙しい。サラリーマン家族の友人が色々なところに遊びに連れて行ってもらった話を、いつもうらやましく聞いていました。
わたしは、小学校まで、かやぶき屋根の家に住んでいました。両親は当時製材工場の仕事で、ほとんど家にいません。おばちゃん子として育ちました。
当時のかやぶき屋根の家の間取りを、なぜかよく覚えています。いろり、かまど、土間など、今でも覚えています。いつも、おばあちゃんのそばにくっついていたからでしょうか?
特に、印象があるのが、おばあちゃんの部屋。そこで、姉や妹と一緒に寝ていました。おばあちゃんが、母親がわりに育ててくれたのです。
小学6年生のとき、父が家を建て替えることにしました。
家が完成するまで、家族6人で隣接する20坪の作業小屋で仮住まいをしました。10畳の部屋があり、あとは2部屋。リビング代わりの10畳に自然と6人一緒にいるようになります。狭い空間なのに、いつもほっとする仮住まい生活でした。だから今でも、大きさや間取りが大切ではなく、家族との大事な時間を楽しく快適に暮らせる「居心地の良い空間」にこだわりたいのはその時の経験からでしょうか?
小学校のときは、友達と、夕方まで、野球、ドッジボール、かくれんぼなどをして遊んでいました。また、山に行って、きのこ取りや昆虫採集をしたり、海や川に行っては、魚釣りをしていました。川に落ちて溺れたこともありました。
当時は子供も多く、近所には同級生が6 人もいて、その中の3 人とはいつも登下校が一緒です。冬になると、田んぼに雪が降るので、雪が固まったところを歩いて学校に行ったり道草が楽しみでした。
自転車を買ってもらってからは、18 ㎞も離れた長岡市まで行くことが出来、普段はどこも連れて行ってもらえない為、新しい世界を知るようで、楽しかったです。当時はほとんどが砂利道でした。
小学校のとき、一番楽しかったのは野球やサッカーなどの球技が好きでした。走るなど、基本の練習することは嫌いでしたが。試合などの、勝ち負けの緊張感が好きでした。結果が出ることが楽しかったです。ただ、わたし自身は、可もなく不可もなく、とくに野球が上手かったわけではりませんでした。
中学の頃、出雲崎町では、海の地区と山の地区が合併しました。それに伴いクラスや人数も増えて、また、交流も増え、世界が少し広がりました。
田舎の中学校なので部活自体が少ないのですが、その中でもやっぱり野球が人気がありました。小学校の延長で、野球部に入りました。野球部に入りましたが、強い情熱も目的もありませんし、あまり夢中になってやっていないので、ほとんどが補欠でした。
ただ、キャプテンのI 君が、熱いタイプで、常にみんなを引っ張っていました。いつもその姿をうらやましいなぁと思って見ていました。
一方、シャイなところあったので、I 君とは相性が良く親友ともいえる間柄でした。I 君の家によく泊まって、深夜放送を聞いたり、語り明かしたりしました。I 君は、ギター好きで「歌作ったので聞いてくれ」と言われ、よく聞かされました。
中学2年のとき、水彩画での二科展の特賞を取りました。美術の担当のS 先生が推薦して下さいました。S 先生からも褒めて頂き、「絵の勉強したらいいよ」と先生が言ってくれたので、将来は、美大で絵を勉強したいと思うようになりました。

「あきらめない気持ちがあれば、、、」
中学校のころ、父は、会社の仕事だけではなく、話もうまく、PTAの役員をやったり、町議会議員をするようになりました。
中学のころ一番辛かったことは、父親との対立です。中学1年や2年ころ、父は「勉強しろ」、「夜遅くまでどこに行っているんだ」等、口うるさかったのです。泊りや帰り深夜になると、怒られていました。そのため、家に帰ってくるのが本当にいやでした。
ただ、父に上から抑えられていると感じていたので、父の顔色をうかがっていました。自分の意思を出せませんでした。なにかやって失敗することをおそれていたのです。
自分のことをオープンにすることが苦手でした。情熱がないわけではないのですが、自分を出してはいけないと思っていました。
中学3年のとき、高校受験に当たって、もう1つ上のランクの高校にチャレンジしたかったのです。それで、先生に「もっといい高校に行きたい」と言いました。先生から「行けそうだけど、ぎりぎりだ。地元でいいか?」と言われ、無難な選択をしました。町外の高校に行きたかったのですが、失敗したらなんか言われる、失敗したらかっこ悪い、という想いがあり、断念しました。
「あきらめない気持ちがあれば、行けたのになぁ」という後悔が、後々まで残りました。
高校では、硬式野球部に入りました。中学の野球部のキャプテンだったI 君と同じ高校に入り、「一緒にやらないか?」と誘われたからです。
補欠とレギュラーを行ったり来たり。つねに試合には出れなかったのです。見ているのは好きではないと思い、野球に夢中にはなれませんでした。ただ、先輩には恵まれ、楽しい野球部や高校生活でした。野球自体は肩や腰を痛め、2年生で辞めました。
そのうちに、仲間と遊んだりすることが、めちゃくちゃ楽しくなりました。夜遊びをしたり、もう時効ですが、タバコ、酒、麻雀もやるようになりました。ただ、めちゃめちゃヤンチャなわけでもありませんでした。
そのうち、バイクを買うと、遊ぶ範囲が広がりました。根は、人見知りですが、人との付き合い範囲も広がって行きました。
そんな風に、野球に熱心ではありませんでしたが、やさしい先輩が多く、人には恵まれていたような気がします。
高校を卒業するとき、父から「3 流の大学だったら行くな」と言われました。本当は、美大に行きたい気持ちありましたが、有名大学には受かる自信もなく、先行き芸術の道を進むまでは勇気がなく、父に言えなくなりました。
ただ、家を継ぐのは、とにかくいやでした。かと言って、なにかやりたいことがあったわけではありません。行く先や強い意思があったわけではないのですが、チャレンジをしたい気持ちはあったのです。
ただ、父の顔色をうかがったり、世間体を考えると公務員がいいと思い、試験を受け、就職しました。一つだけ思っていたことは、「ただ県外に出たかった」ということです。
小学校、中学校、高校と振り返ったとき、なんでも強い情熱を持って努力したことがほとんどありません。可もなく不可もなく、通信簿でいうと、「オール3の人生」と言えます。
ただ、仲間と一緒に過ごす時間がしあわせでした。そして、どこか見知らぬ世界を見てみたいという欲求だけが、どこかにあったなぁと思っています。

「これでだめだったら、やめよう…」
高校を卒業して、国家公務員試験に合格し、横浜の郵便局に配属されました。生まれてから初めて出雲町を出ました。横浜の郵便局には、全国からいろんな人が来ていました。仕事は内勤でしたが、最初はおもしろかったです。なにより、気楽さと自由感がありました。
社会人になり5年ほど経ったとき、母から「戻って来てくれ」という連絡がありました。父が町長選に出るので、家の仕事を継いで欲しいとのことでした。わたしも、単調な仕事に飽きて、そろそろいいかなぁと思い始めていたときでした。「カエルの子はカエル」なのかも知れません。自営業の子は、あんなに嫌に感じた自営業に憧れるのかも知れません。ちょうどいいかなと思い、公務員をやめて、実家に戻りました。
実はその時は父はその選挙に落選しました。最初、父の会社の仕事のことはなにもわからず、製材の手伝いをしていました。その後建築士の資格を取り、設計と営業をするようになりました。
出雲崎に帰ってきて結婚しました。妻とは懇意にしている方の紹介で、最初はお見合いがきっかけでした。その時はお互いに忙しく、そのまま別れ、もう会うこともなかったですが、その後、妻の実家を増改築する話が出て、その時私が設計と工事を管理しました。それがきっかけで改めてお付き合いするようになりました。今思えば、不思議な「縁」でした。
父が2 回目の町長選出馬の準備に入るとき、家に世話人の人が来ました。その人の前に座らされて、「おまえたちで会社はできるのか?」と聞かれました。
?
わたしは「やります」と答えました。すると、世話人の人は、妻にも「あなたはどうか?」と聞きました。妻は、きっぱり「手伝います」と答えました。
妻は、もともと運動神経が良く、体育大学に行き、先生になりたいと思っていました。それが何故かこんな田舎の材木屋へ嫁いだ。なにもわからない、事務職もわからない、電話を取るのが苦手。それでも、一緒に手伝ってくれていました。妻にのちに聞いたら、「この人がやるなら、やるしかない」と覚悟したと思ったそうです。そのまま今でも支えてもらっています。感謝です。
社員数も少ない上に、山を買い、製材作業、リフトを動かす、2トン車で配達、などなど、妻をはじめみんなでやりました。
父は2回目の選挙で当選。会社の仕事は、完全にわたしに任されました。いきなりほぼ社長。そのまま40 年近く家業を継いできました。これも地域と職人さんや妻のお陰と感謝しています。木材業もそうですが、設計や工事管理の仕事は3K とは言え、とても面白かったです。一つ一つ思いを込めて設計して、職人さんと共に形にしていく・・。夢中になって仕事に取り組みました。

わたしにとって、隣町のS設計事務所という県内トップレベルで、神社や仏閣もこなせる、本格和風建築設計士の方との出会いは非常に大きかったです。Sさんにはとても可愛がられて、忙しいのにすぐの相談に乗ってくれたり、図面の書き方を丁寧に教えてくれました(難しすぎて覚えきれませんでしたが・・)。一般的には、木造の本格和風建物はほとんどが、その町の腕の良い大工さん任せでした。型があり正確に設計できる人は1級設計士でもほとんどいませんでした。Sさんは、本物の木造和風住宅の設計士でした。とてもその技術(ある意味芸術でした)は、簡単に覚えられるものではありませんでしたが、そのSさんに図面の書き方、建物の見方を教わったことで、今のリノベーションの仕事に非常に役立っているのです。
その後、地域の人や地元の大工さんや塗装屋さん、森林組合の方たちなどがお客さんを紹介してくれて、仕事が回るようになりました。こんな素人同然の私でも、地域の人に支えられ仕事が成り立つ、暖かい時代だったのです。その為にエリアは柏崎から新潟市までですが、本社は出雲崎からは出ないようにしています。
ところが、2000年ころになると、こんな田舎まで大手企業が住宅産業に参入してきました。木材もかつては国産材が主流だったのに、輸入材に押されるようになったのです。その為、出雲崎町だけで17社ほどあった製材所もみるみるうちに減っていきました。国産材の価値がなくなったのです。
わたしが家を建てた高校の同級生が、増築するとき、「ほかも聞いてみようかなぁ」と言われたのには、ショックを受けました。
「友達でもそうなんだ…」
と強烈な危機感を持ちました。「めちゃくちゃ悔しいけど、そういう時代なんだ」と思いました。そこで、地元を出て、自分でお客さんを見つけよう、自分たちの力でやろうと思いました。
そこで、越後棟梁の会に入ったり、大きな和風の自宅を建て、モデルハウスにしたりしました。ところが、大手ハウスメーカーに連戦連敗。人々の家から和室がなくなり、和風のモデルハウスの見学会にも人が来ません。結果、売上が半減するところまで落ちました。
「これは、もうやめないといけないか…」
とひしひしと感じ始めました。建売の会社の下請けの仕事でつないだりしましたが、常に利益が少ない。先行きの受注も不透明。かといって、なにをしていいのかわからず、行き当たりばったりの会社経営でした。
2003年、ある住宅コンサルタント会社からセミナー案内のFAX が来ました。を開催しました。その内容を見たとき、ピンとくるものがありました。
「これでだめだったら、やめよう…」
その決意のもと、長岡のホテルで開催さセミナーに参加することにしました。同時に、妻にも「一緒に来てくれないか」と誘いました。セミナーの話を聞き終わったとき、妻に言いました。その当時の私たちにとってはかなり高額なコンサルタント料でした。
「これ、やろうと思うんだけど…これやって、だめだったらやめるよ」
すると、妻は、「あなたがやるなら、お金工面するから」と言ってくれました。やっぱり、こういうとき、妻を連れてきて、よかったと思いました。妻の一言が、とてもうれしかったです。
のちに、当時のことを妻に聞いたところ、「あなたは、『やってみないとわからない。やるといったら必ずやる』という人でしょ」と笑っていました。
その後、マーケティングとの出会いなどもあり、「これならできる!」という確信から、集客する仕組みが出来上がってきました。

なぜ、わたしは【素直】を使命と宣言しているのか?
マーケティングを学び、自分たちで集客する仕組みを作り、売上を上げることはできるようになりました。ただ、一番の悩みは、スタッフのことです。
2年前の2019年、10年間一緒にがんばってきた営業マンにやめてもらったことは、辛い出来事です。
12年前、30歳前後の男性が、いきなり会社に飛び込んできました。会社に入るなり「営業を募集しているみたいですけど」と言うので、わたしも思わず「今はいらないよ」と断りました。
次の瞬間、募集文書に共感して来てくれる人間は、そんなにいないよな、と思いがよぎり、「ちょっと待ってくれ。一回話を聞くわ」と言いました。
それが、当時28歳だったI くんとの出会いです。話を聞くと、会社に飛び込んで来るだけあって、やる気とバイタリティがありました。それで、I くんを採用にすることにしました。
I くんは、朝早くから夜遅くまで仕事をしました。営業としても非常に優れていたので、売上はどんどん伸びていきました。そのおかげで、新卒社員も採用することができるようになりました。マニュアル作りもうまく、ほかの営業の人のためにもなりました。
ただ、人の使い方が私と同じで、上手くはありませんでした。新しく入って来た若い人を育てない(育てられない)。営業としては、スーパーでしたが人の育成は苦手で、それで辞めていく社員もいました。考えてみれば、スーパー営業はそんなものです。
順調に売上も伸びていきましたが、新潟支店を出し、モデルハウスを作り、新卒を採用していくうちに経営が苦しくなり、2018年、2019年と会社が赤字になりました。利益率が低い受注をしていたからです。
会社が赤字、社員が辞めるという状況も重なり、自分がその原因なのに、I くんに社員の育て方に苦言を呈しました。
すると、I くんは、本当は、自分でも会社を経営したい、と言い出しました。(元々は独立して経営者になるのが夢だったのですが・・)
会社の状況もあり、わたしもその言葉にカチンと来て、「だったら、自分で経営者になったらいいから、やめてくれ!」と言い放ってしまいました。
「なら辞めます」という、I くんの一言で、10年間、一緒に築いてきたものが、一瞬にして崩れてしまいました。
I くんの退職が決まり、送別会で、わたしは、社員の前で想いを口にしました。「I くんとは、10年付き合った。この会社があるのは、I くんのおかげだ。本当は、辞めさせたくなかったけど、わたしのマネジメント能力がなくて辞めさせてしまった」
その言葉を聞いて、社員のみんな、涙をこぼしました。
送別会の翌日、会社に行き、もういないI くんの席を見た途端、無性に自分のことが情けなくなりました。
「おれは、なにをやってんだ…」
心の中で、自分への憤りの気持ちが、湧きあがってきました。
マーケティングを勉強したりすることは熱中してきましたが、社員を育成することが、大の苦手だったのです。
社員が話をしてくれたとき、人間関係の悩みを聞くのがいやだったのです。社員をどう育成したらいいのか、訓練されたわけではない。どうしていいのかわからなかったのです。わたしがなにか言って、社員から不満などを言われるのがいやだったのです。
しまいに、人間関係の問題を聞く耳を持たなくなっていきました。社員の人間関係の問題に関わらないようになってしまったのです。
そのしわ寄せが、I くんに行っていたのかもしれない…
そう思ったとき、I くんに申し訳ないことをしたと、強烈に後悔しました。
I くんが「自分でも経営をしたい」と素直に本音を言ってくれたとき、もっとIくんのやりたいことや悩みを聞けばよかったの…
もっと、素直に、I くんと正面から向き合いたらよかったのに…
そう思った瞬間、ハッと気づきました。中学3年のとき、もう1つ上のランクの町外の高校にチャレンジしたかったのに、先生から「ぎりぎりだ。地元でいいか?」と言われ、無難な選択をした。行きたい高校があると、素直に言えたら。
高校3年のとき、父から「2流の大学には行くな」と言われて、自分の思っていることを言えなかった。
「本当は、美大に行きたいんだ」と、素直に言えたら。
わたしが家を建てた同級生から、増築するとき「ほかも聞いてみようかなぁ」と言われて、なにも言えなかった。
それはどんな理由からなのか、素直に聞くことができたら。
そうなんです。わたしは、素直であることが欠けていたのです。
この体験から、わたしは【素直】を使命と掲げることにしました。
【素直】を使命と掲げたことで、自分の素直な気持ちも見えてきました。
長く続く会社にしたい!小さいけど強い会社にしたい!という気持ちが、湧きあがってきました。
因みにI 君とは今も仕事を含めて良好な関係が続いており、FP になった彼に、当社のサポートをお願いしています。
わたしの会社のある出雲崎町は、小さな町。採用が非常に厳しいです。田舎の工務店に入って来てくれるのは、女性が中心です。この会社に入ってよかったと思ってもらえるように環境を整えるようにしました。
その一環が、そこで働く人の健康にいい自然素材にこだわった事務所やモデルハウスを作ったことです。お客さんだけでなく、いつもいる社員が、きれいな空気の環境で働いてもらいたいと思ったからです。
また、今までは、周りを気にして、周りの言葉に流されて生きてきました。そのため、自分から素直に、伝えたり、表現をするようにしました。さらに、お客さんと強い信頼関係を結べるような仕組みづくりをしました。
もちろん、まだまだいろんな課題は抱えていますが・・・。
そのおかげで、お客さんからもこのように言われるようになりました。
「山六さんの事務所に行ったときも、本当にアットホームで家族みたいな感じがして。営業っぽくない」
「社長の奥さんがいて『はいどうぞー』みたいな。『ゆっくりしてってねー』みたいな感じが、一番よかった」
「アットホーム感が一番。造った家も温かみがある。それって、山六さんのみなさんが温かいから、もっとプラスアルファで温かい家が できるのかなって」
このように会社のみんなのことを言ってもらえると、わたしもとてもうれしいです。昔は元々そんな会社でした。
大きな会社を目指さず、目の届く範囲の会社の社長として、お客様に、わたしの考えを、素直に伝えるよことが出来る会社になろうと思います。年をとっても、お客さんから直接話を聞く場や話す場がなくなったら、工務店の社長としては引退だと思います。そのため、2回目の打合せは、本社の出雲崎に来てもらいます。そこで、わたしの家作り考え方をお伝えしています。また、初めて家を建てる方の不安も丁寧に聞くようにしています。
1年前に家を建てたお客さんに、なぜ、当社に依頼したのか、聞いてみました。
「『大きい家なんて建てなくてい いよ』と社長さんが言ってくれて、私達夫婦に合った暮らしを考えてくれてるって、感じましたね」
「社長さんが『無垢なので、傷ついたら削ればいいんだよ』って言ってくれたので、子供が傷をつけたとき、『この傷、あの時の傷か』と思い出も残る家になりました(笑)」
「土地をどうしようか、今建てようか、迷っていたのが、相談に乗っていただく中で、自分たちの決断ができたことがよかったです」
このように言っていただくと、あらためて、この仕事をやっていてよかったと思いました。
戦後60年たった山林がお荷物になってしまった。この国産材がもう一度脚光を浴びることができるようにしていきたいと思っています。国産材が陽の目を見ることで、地域の大工さんはじめとした、地域産業を再生をすることに少しでも貢献していきます。
もう1つ、家は、家族が集まる場所。大きな家、小さな家、関係なく、家族がほっとする場所であればいいのです。
そのためには、まず、家族全員が健康に暮らせる必要があります。その条件が、「きれいな空気」です。だれもが手が届く自然素材は絶対条件になります。
「へその緒が透き通った赤ちゃんが生まれました」
というお母さんが一人でも増えてもらうために、想いのある会社さんと一緒に、自然素材を提供していきます。
そのためにも、【素直】を使命として宣言して、伝えていきます。
最後に
妻へ
慣れない材木屋へ嫁いだかと思うと、
工務店へと舵を切ると資金のことで
苦労をかけっぱなしです。
「ここでだめなら、やめる」という時も
支えてくれたこと、あらためて感謝します。






